森田真生インタビュー04/ 07 /2012

僕達はみな、かけがえのない「答え」

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「18歳」のときは、誰にとっても大きな転機だったりしますが、森田さんにとっても生きざまの「探求」が、「体現」に変わる、ちょうどその狭間の年だったんでしょうか。
森田
僕の場合、高校2年生の時に、人間っていうのは「問う」側じゃなくて、「答える」側だっていう気づきがあって、その時に何かが自分の中で変わったんです。
「問う」っていうのは、答えがあらかじめ、どこかに用意されているイメージがありますよね。そうじゃない、自分たちは「問う」側じゃなくて、「答える」側、「問われている」側なんだって思って……。
そこから、哲学や学問をすることの意味合いが、自分の中では反転した感じでした。まあそれが、素朴な高校2年生の時の最初の体感で、そういう原体験に少しずつ、言葉やいろんな経験が重なって、今のような生き方になったと思っています。
大学に入ってから、鈴木健さん(サルガッソー代表取締役)を通して、ヴァレラの本などを読むようになり、それでその「コレオグラフ」という言葉を、自分の座右の言葉として持つようになって、さらに数学っていう方法論に出会い……で、実際に踊るようになったりして(笑)。だんだんそんな風に、後からついてきた感じですね。
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高2の時のその、いわば「悟り」のような転機……って言ったらおかしいかもしれませんが、その気づきって、突然現れたような感じでしたか?
森田
何がきっかけだったのかは、詳しく覚えてはないのですが、いろいろなことを考えるじゃないですか、「生きるっていうことはどういうことか?」とか、「存在とはなにか?」とか、そういうことを苦しくなるほどずっと考え続けて、考え続けて、考え続けたときに、
「ああ、その意味を『問う』ことそのものが、実は違うんじゃないか。1人1人のひとが、問いを抱えて生きているのではなく、1つ1つの人生や存在が、何かの問いに対する答えそのものなんじゃないか。だから僕が生きているっていうことも、何かの問いに対する答えなんだ。だから、このままでOKなんだ」って思ったら、すごく納得したっていうか……。
バスケにしても、勉強にしても、この世にはマイケル・ジョーダンとかアインシュタインとかすごい人たちがいますから、同じひとつの問いをみんなで解こうと競争しているなんて思ったら、自分よりはるかに良い答えを出せる人が沢山いるわけです。
すると、「自分より優れた人がいるから、自分なんかいなくてもいいんじゃないか」とか、そういう感覚にやっぱりなるわけですね。
そういうことに僕らはとっても苦しんだりするわけです。でも、いろいろな問いがあって1人1人の存在が、それぞれの問いに対する答えそのものなんだって思ったら、何か僕が生き抜くっていうのも、誰も知らない何かの問いに対する、まだ誰も知らない1つの答えだし、その横の誰かが生きることも、そういうことだから……。
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「私が究極の問いに答えるから、あなたはもう生きなくていいんだよ」っていうことではないんですね。
森田
そう、僕も含めてみな生きないといけないっていう……。
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根源から伺えて良かったです。今の言葉は今回いらっしゃる方へのメッセージでもありますね。とても響く気がします。おそらく、自分が生きることに対して、ある意味問い続け、答えを見つけようとする人たちが多くいらっしゃるのだと思うんですよ。
今までにない始まりの予感がします。「CHOREOGRAPH LIFEって何をやるんだろう」って……「『この日の学校』よりさらにわからない」と言われていましたから(笑)。
森田
宇宙は全部を含んでいる。だけど、含んでいるからといって、宇宙が全部を知っている訳ではないと思うんです。宇宙は絶対的にすべてを知っていて、それに含まれている僕は取るに足らないちっぽけな存在に過ぎないかっていうと、僕っていうこの大きさ、このスケールで存在しているものじゃないと答えられない答えってあるはずだと思うんです。
一番大きいからって宇宙が一番偉いわけじゃない。一番でっかいと、でっかすぎて(笑)、自分ではわからないことがあるはずで。問いのスケールがそれぞれ違う以上、1人1人の存在すべてが何かの問いに対する答えなんだよ……そう考えるのも面白いなあって思うんですけどね。

心を分かち合うこと、ライブ論

森田
ゲーデルってすごく魅力的な人なんですけど、時代の先を行きすぎて、フォン・ノイマンやアインシュタインなどの理解者もいたのですが、ある面とても深い孤独を生きた人でした。
「ゲーデルの不完全性定理」と呼ばれている定理を証明した時も、フォン・ノイマンこそただちにその重要性を理解しましたが、まわりがゲーデルに追いつくには相当の時間がかかったと言われています。 アインシュタインは好んでゲーデルと散歩に出かけて議論を楽しんだらしいですが、アインシュタインも、当時は物理学の世界では神のような存在になってしまっていて、ある意味でゲーデルと同じ種類の孤独を味わっていたのかもしれません。
ゲーデルが“I do not fit into this century”ということを言っていて、まぁ「生まれるのが百年早かった」という、悲痛な叫びのようにも聞こえる言葉ですが、ゲーデルのやろうとしたことの重要性を真に共有できる人が彼の同時代にはなかなかいなかったという意味で、本当に深い孤独を味わったのだと思います。実際、フォン・ノイマンとアインシュタインが立て続けにこの世を去ったあと、ゲーデルはすっかり落ち込んでしまって、ほとんど玉子以外何も食べなくなってしまった。最終的には体重三十数キロで、ほとんど餓死に近いかたちでこの世を去りました。
 
どんなに素晴らしい思想や思考を持っていても、それを理解してくれる人とか共感してくれる人がいないと、その思考が生きるどころか、自分を保ち続けることすら困難なんですね。
思考って、それがどんなに素晴らしいものでも1人では抱えられないもの……共有されたり、複数の心が同じことを考えて、同じ方に向かって揃うことで場の力が生まれてくる。そして、自分でも思いつかなかったような解が出せることがある。
人前で話すときには、そういう瞬間っていうのがやっぱりあるわけですよね。僕が人前で話す最大の理由がそれで、必ずしも拍手とか笑いだけじゃなく、その場にいる何十人かの心が揃うような瞬間があって、それに何か、すごく不思議なエネルギーを感じるんですね。
1人の頭の中で、何かが分かればいいわけじゃない。ゲーデルの頭の中でどんなに素晴らしいものがあっても、心が揃った人がそばにいて、はじめてその思考は命を獲得することができるわけです。
だから、わかればいいっていうことでも、誰かが気付けばいいっていうことでもなくて、何かに対して、何人もの人が、同じように心が向かうということは、それ自体がとても価値のある素晴らしいことだと思います。僕がライブの場に、求めていることはそれなのかなって。
だから、理解をともに分かち合いながら生きていくためにも、皆さんの思考や反応を借りて、より大きな考えを生み出す場としても、勉強・研究することと同じようにライブの場を、僕は重要視しています。
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なるほど。そういう意味ではライブは森田さんにとって、自然計算の場とも言えそうですね。最後にコレオグラフと数学の関係性について一言お願いします。
森田
コレオグラフということを考える際、やはり、いま世界を駆動しているのが数学的な言語である、という事実は直視しないといけないと思うんですよね。自然は制御したり統制したりするものじゃなくて、自分たちだって自然の一部じゃないか、っていう、そういう発想を僕ら日本人はどこかで共有できているかもしれないけれど、そういう感覚を共有できる人たちっていうのは、世界全体のなかではあくまで少数だと思います。
やはり、いま社会の力学を支配しているのは、西洋的な自然科学と数学の思想であって、だからこそ、コレオグラフということを考えるときに、そうした西洋的な自然科学の思想と真正面から向きあうことは避けられない。そして、西洋の自然科学の思想を根底で支えているのが「計」の思想だと思うんですね。そのなかでも「計算(computation)」ということが、現代社会の根底にある。
その「計算」の思想の起源となりたちを突きとめて、それをどう書き換えていくか、どうつくりなおしていくか、ということが、CHOREOGRAPH LIFEの第一歩だと思っています。
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今日はお忙しいところ、本当にありがとうございました。

(2012.7.20 京都数学ハウスにて)

これは、8月5日にしもきた空間リバティーで開催されたトークライブCHOREOGRAPH LIFEに先立って行われたインタビューです。

日本の風景には、幾重にも重なった時間がある。
川がさらさらと行き、樹は堂々と立ち、風が縦横無尽に駆け抜けて、虫が鳴く。
時間を統制する絶対者はいない。

太陽が刻む時間。川が流す時間。風が報せる時間。
それぞれにそれぞれの時間の自由がある。
日本の風景は、一つの時間、一つの意味に回収されることを拒むかのように、動き続ける。仮に自然が一つの意味に回収されてしまったとすれば、もはや自然は動き続ける動機を失うであろう。

生きる意味とは何だろうか?

この問いが、永遠に未解決のまま、それでもなお僕らが生き続けることができるのは、この問いの未解決性そのものが、僕らの生きることを支える根拠だからである。

意味から徹底して自由であるということによってはじめて動き出す意味が、僕らの生を駆動する。

安易な意味にまとめられた生の一貫性から自由になること。
意味が先立つ計画や制御を超えて、意味に動きが先立つような生のchoreographyを追求すること。

CHOREOGRAPH LIFEということばには、そんな思いを込めたつもりである。

言葉や意味に回収されない生の全体と向き合うために、僕は本を書くのでも、論文を書くのでもなく、全身を曝け出して、ステージに立つことにした。

自分を超えた制約の中に自分を投げ出したとき、はじめて走り出す思考があるはずだと、信じている。

What is life?
… WE are the definition of life.

森田真生 著

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