森田真生インタビュー04/ 07 /2012

「CHOREOGRAPH LIFE ―未知に開かれた”いま”を生きる―」

コレオグラフライフとは

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CHOREOGRAPH LIFE(コレオグラフライフ)……コレオグラフっていう言葉って、比較的聞き慣れない言葉ですよね。しかし、森田さんはご自身の代名詞のように公式サイトや、イベントなどにこの名称を使っていらっしゃいます。それについての森田さんの思い入れを、今日はわかりやすく教えていただければと思います。
森田
「計」という字は、ある意味で近代以降の社会を特徴づける字だと思います。計画、設計、計測、計量……「計」という字を含む熟語は無数にありますが、どれをとっても、そこには未来あるいは未知を、現在あるいは既知のなかに回収してしまおう、という発想があるように思います。本来予測不可能な未来を、予測可能性の中に回収して制御してしまおう、と。
で、そういう発想に抗おうというか、「計」の思想とは違った行き方もあるんじゃないかっていう気持ちを、僕は“コレオグラフ”という概念に託している部分があるんです。
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一般的には「振り付け」って訳されますよね
森田
下手な振り付けって、それこそ「ふり」になっちゃいます。やってるふり、楽しんでるふり。「ふりになる」っていうのは、もう振付師に完全に制御されてしまって、設計された計算通りの状態ということで、それは本当の心からの動きではなく、見てても面白くない。
一方、本当に良い振り付けをみていると「ふり」には見えない。まるで踊り手が自由に好きなように踊っているように見える。でも実際にはその背後に構想と構成がちゃんとあるわけです。制御や計画とは違うけれど、無秩序や無計画でもない。自然よりも自然な動きをつくってしまう、そういう一流の振り付けを見ていると、ああ、ここには「計」の思想とは本質的に違う「方法」があるなぁ、と感じ入ってしまいます。
その制御とか設計っていう方法論とは違う、コレオグラフという方法こそが、未来を未知として開いたまま、現在を生きるっていうことなのかなって思ったんです。以来、生きることを計画するのでも計算するのでもなく、生きることをコレオグラフする、Choreograph Life!ということを自分の人生のモットーとしています。
大学に入ったばかりの頃つくったブログのタイトルも、「Choreograph Life」でした。
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ということは、すでにその頃からこの言葉に対する思い入れがあったんですね。
森田
「そうですね。フランシスコ・ヴァレラっていう生物学者・認知科学者が、『知恵の樹』という本を書いているのですが、文中に「ほんとうは日常生活だって、行動の調整の、洗練された舞踏術(コレオグラフィ)だ」という表現があって、ああ、コレオグラフィって素敵な言葉だな、と思ったのがきっかけです。
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森田さんがやっていらっしゃるダンスから思いついたのだと思っていたのですけど、違うんですね。
森田
はい。ダンスを始める前でした。
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閉じられたビジネスや狭い学問の世界は、ある意味「計」の字で表現される世界とも言えるかもしれません。それに対する、森田さんなりの生きざまを示す意志もそこに込められているのでしょうね。
ある意味、目標とするには難しい概念ですね。ただの振り付けじゃない。本物の振付師が、身体そのものは言うに及ばず、いわば人間の中に内在しているものも、外にある場の力も全部ひっくるめて引き出す、っていうことですものね。
森田
「生きるとはどういうことか」とか、「生命とは何か」と問う代わりに、まだ未確定の意味をみずからの命を通してつくりあげていく。そういう気持ちを込めたつもりです。

颯――君に透明の風を送ろう

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生きざまそのものを体現すること……今回はそれがイベント名になっているわけなんですけれども、今の深い言葉を受けて、どういうイベントにしていきたいって、思っていらっしゃいますか?
今の言葉を聞いて腑に落ちたのですが、森田さんのイベントって、見に来たお客さんの生き方にまで、何らかの影響を与えることが多いと思うんです。まさにコレオグラフしているのかもしれません。潜在的に皆さんが持っていた考え方や生き方が、森田さんのライブをきっかけにして、触発されたような胎動を感じる感想が多いですね。
昨日、とある出版社の方から、「同僚が参加した『この日の学校』で、森田さんがとても良かったという評判を聞いたので、私も参加を希望します」というメールを頂いたのですが、そのメールの文面によると、同僚に「どこが良かったの?」って聞いても、「どう表現したらいいかわかんないけど、とにかくすごく良かったから見に行ってらっしゃい!!」というような返答だったそうです。で、「わかんないけどワクワクしてます」みたいな(笑)、そういうメールを頂きました。でも、そういう身体で感じる捉え方って、結構正しかったりするんじゃないかなと思っています。あの感動は実に言語化しにくいですし。
森田
今回のイベントのイメージは、「颯爽(さっそう)」の「颯」の字。「立つ」って書いて、「風」って書くんですね。
宮沢賢治の『生徒諸君に寄せる』っていう詩で、「未来から颯爽と吹く風を感じるか」っていう素晴らしい詩があるんですよ。「新しい時代のコペルニクスよ」と激励する詩があって。ちょっと今出そうかな。

『生徒諸君に寄せる』 著者:宮沢賢治

中等学校生徒諸君 
諸君はこの颯爽たる 
諸君の未来圏から吹いて来る 
透明な清潔な風を感じないのか 
それは一つの送られた光線であり 
決せられた南の風である 
諸君はこの時代に強ひられ率ゐられて 
奴隷のやうに忍従することを欲するか 
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば 
われらの祖先乃至はわれらに至るまで 
すべての信仰や特性は 
ただ誤解から生じたとさへ見え 
しかも科学はいまだに暗く 
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ 
むしろ諸君よ 
更にあらたな正しい時代をつくれ 
諸君よ 
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに 
諸君はその中に没することを欲するか 
じつに諸君は此の地平線に於ける 
あらゆる形の山嶽でなければならぬ 
宙宇は絶えずわれらによって変化する 
誰が誰よりどうだとか 
誰の仕事がどうしたとか 
そんなことを言ってゐるひまがあるか 
新たな詩人よ 
雲から光から嵐から透明なエネルギーを得て 
人と地球によるべき形を暗示せよ 
新しい時代のコペルニクスよ 
余りに重苦しい重力の法則から 
この銀河系を解き放て 
衝動のやうにさへ行はれる 
すべての農業労働を 
冷く透明な解析によって 
その藍いろの影といっしょに 
舞踏の範囲にまで高めよ 
新たな時代のマルクスよ 
これらの盲目な衝動から動く世界を 
素晴らしく美しい構成に変へよ 
新しい時代のダーヴヰンよ 
更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って 
銀河系空間の外にも至り 
透明に深く正しい地史と 
増訂された生物学をわれらに示せ 
おほよそ統計に従はば 
諸君のなかには少くとも千人の天才がなければならぬ 
素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである 
潮や風…… 
あらゆる自然の力を用ひ尽くして 
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ 
ああ諸君はいま 
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る 
透明な風を感じないのか

 
この颯爽の「颯」の字、「立つ」に「風」っていうことから、ライブの場所から風が立つっていうイメージをこのイベントに抱いています。
ーー
司馬遼太郎が小説で、何かを動かすような圧倒的な爽やかさを持つ人物を評して「足元から風が立つ」という描写をしていたことを思い出しました。思い切り、逆の方向性でフライヤー作っちゃったのかもしれません。でもあそこから何かが生まれる予感はあったので……。
森田
「この日の学校」よりは申し込むハードルが高いですものね。「計算と暴力」……何か覚悟を決めないといけない感じがしますから。
 宮沢賢治って踊ったらしいですよ。で、踊りがあまりにも激しくて、見ている人がひいちゃうぐらい、訳の分からない踊りを、突然踊りだしたそうです。気がおかしくなってしまったんじゃないかっていうような、舞い様だったそうです。
ーー
彼も極限まで生きた人ですもんね。信仰も含めて。
森田
その「颯」の字は、最初、この数学ハウス(京都)の名前を考えた時に付けたかったほど思い入れのある字なんですけど、読み方が「さつ」なんで、使いづらかったんですよ。
ーー
森田さんの、生き様自体が「颯」なのかもしれない。
逆説的ですけれど、「計算と暴力」っていうサブタイトルから、今まさに、観客に透明な新しい風を送るイメージが湧いてきました。
重いテーマから、自分自身が透明な何かを得て、帰って行けそうな気がしますね。新しい、自分に今までなかった生き方とか、見方とか。テーマ的にも、今回、数学ではなく詩を出して頂いたので、今までにないような形のイベントをイメージしてしまいます。

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