『なめらかな社会とその敵』生命の起源から、300年後の未来を構想する
夢を語ればその動機を問われ、信念を論ずればその根拠を訊ねられる。病があれば病因を探りはじめ、事故があれば責任の所在が追及される。とかくに人の世は、結果と原因の究明に忙しい。
しかし世界は、原因と結果の連なりに回収できるほど単純にはできていない。いかにもはっきりとした原因と結果の連鎖も、それは辿っていくうちに、複雑に絡みあう世界のネットワークの中に消散してしまい「起源への遡行」は未遂に終わる。そうしてあらためて世界が、互いに支え合う無数のものたちが縁起する、大きな網だったのだと気付く。
想像してみてほしい。ここに網がある。その網をつぶさに眺めていても、そこには始点も終点も見出せない。ところが、この網を一部ちぎりとってみると、ちぎられた網は、何ヶ所かで枝分かれをした、樹(ツリー)の構造になる。そこではじめて始点と終点を、原因と結果を、過去と未来とを語ることができるようになる。
原因と結果、あるいは過去と未来の区別は、網の全体性から部分をちぎりとってきたときにはじめて立ち上がる。
網をちぎったところに立ち上がるものは所詮、局所に宿る仮構である。ならば、そんなものは一掃してしまえ。あるのはただ、ひとつの大きな網だ。そう歌い上げるのは容易い。しかしここに、ひとつの大きな問題がある。網の目からその部分をちぎりとり、「分ける」ことで「分かる」という私たちの方法は、あまりにも生物学的な起源を持つ。
そもそも生命の歴史は、内と外の区別のない巨大な力学系に、細胞膜がひとつの境界をひくところからはじまった。生命そのものが、化学反応のネットワークに過ぎなかった巨大な網の中に浮かび上がる「膜」としてはじまったことを思えば、国家や組織、あるいは個人といった、社会が生み出す「膜」もまた、単なる仮構として片付けることはできなくなる。システムの境界を同定して内と外を分ける膜は、複雑な世界の複雑さを縮減する役割を果たす。網の上の局所に生命がつくりだす膜の構造。そこには、複雑な世界となんとか折り合いをつけようとしてきた、生命が生命であることに由来する、深い業が刻まれていることを見て取らねばならない。
とはいえ、膜の構造を引き受けて生きていくことは、ときにしんどいこともある。とりわけ、「私」というこの淡く広がる存在の感触に「個人(individual)」という確固とした境界を押し付けられてしまうのは、いかにも息苦しい。なんとかして境界を、もっと「なめらか」にすることはできないだろうか。これが、著者の立てた問いである。
内と外を分ける膜構造のあまりにも生物学的な起源を思うと、その膜をなめらかに解消してしまうことなど、不可能に思えてくる。しかし幸いにも、生命には、複雑さを飼いならすための「第二の方法」があった。
複雑な世界とつき合うために、膜は世界の複雑さを縮減する。一方で、世界の複雑さをそのまま環境の方に押し付けてしまう、という手がある。認知的な負荷を環境に散らすために、自分でしなくて済む計算を、環境の方に押し付ける。自分で計算をする代わりに、環境がうまく計算をしてくれるように、環境を作り替えてしまう。*1これこそ、複雑さとつき合うために生命が編出した「第二の手段」であり、筆者はこれを、広い意味での「建築」と呼んでいる。
脳の計算負荷を環境に散らす「建築」の結果生まれる「機能拡張された環境」を建築物(architecture)と呼ぶならば、社会制度はまさしく建築物である。そしてそれが建築物であるならば、再設計することができる。構築しなおすことができるはずだ。
かくして著者は「なめらかな社会の建築」に取りかかる。複雑な世界の複雑さを、社会制度の方に引き受けさせることができれば、もともと複雑さを縮減させるために要請された「膜」を、なめらかに解消できるのではないか。技術を環境のほうに実装してやることで、余計な計算は環境に任せて、心の方は複雑な世界を複雑なまま引き受ける認知的余力を手に入れる。そうして、複雑な世界を無理に単純化することからくる生きづらさから解放され、もう少し生きやすい社会をつくることができるのではないか。これが鈴木氏の描いた、ヴィジョンである。
本書の登場が21世紀を待たねばならなかったのには理由がある。ウェブの登場によって、社会制度の再設計は、格段に現実味を帯びるようになった。グーグルのページランクが、ウェブ上の認知的な距離の感覚をデザインするように、ウェブの登場以降、私たちはまるでプログラミングをするように、社会制度を設計しなおすことができるようになった。いわば、社会を情報で建築できるようになったのだ。著者は本書の中でそのことを実践的なかたちで提示してみせた。実際、貨幣システム、投票システム、軍事システムの再設計が論じられた上で、貨幣システムと投票システムについては、具体的な数学的モデルが提案されている。社会制度の再設計案を、実装可能な形式にまで落とし込んで提示してみせた「情報建築家」としての鈴木氏の13年越しの仕事に、戦慄を覚える読者も少なくないはずだ。
しかし、著者の構想はここに留まらない。 人間同士の関係性のネットワークは、そのままなめらかに他の生物との関係性にまで接続される。「なめらかな社会の建築」は、他の生物種、さらにはあらゆる自然現象をも、その「社会」のうちに含むのでなければ、未完のままである。社会制度を構築しなおそうという「情報建築」のたくらみの必然的な帰結として、著者は自然そのものが情報で建築しなおされる未来を夢想する。ここにきて私たちは、情報建築家鈴木健のうちに、未来の「自然建築家」の姿を見出すに至るのである。
所与の世界の受容者という地位に甘んじることなく、新しい現在の「建築」に向かう鈴木氏の思想は、世界がいままさに生成の過程にあるのだということを、私たちに思い出させてくれる。生からはじまり死へと至る、過去から未来へと伸びる一直線は、生成と崩壊の絶えざる反復のうちに浮かび上がる幻影に過ぎないのかもしれない。生成は一度きりではなく、絶え間なく、繰り返し起きている。
社会システムを生命システムの起源から説き起こす。そういう意味で、徹底的に過去に遡行するところからはじまった鈴木氏の思想が、逆説的に、私たちに「現在」への参加を力強く訴えかける。そうして本書そのものが、完成された書物として消費されるのではなく、新たな行為を生成する契機となることを、そして絶えず新たな著者の登場によって読み継がれ、書き継がれていくことを、求めるのである。
ぜひ本書を、上質な読み物という消費財としてではなく、新たな未来を生成するための生産財として、手にとってみていただきたいと思う。
“……すべては読者にゆだねられている。本書の読者の誰かが、より大胆で、本質的な貨幣や投票や軍事システムのアイデアを生み出し、濃縮し、実践してくれるのであれば、それこそが著者の隠れたメッセージを理解しているものといえよう。世界は生成するものであり、あなたは世界に参加しているのである。”(『なめらかな社会とその敵』「あとがき」より)
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本稿は2013年3月10日にHONZに寄稿をさせていただいた記事です。