日記
二〇一五年十月十八日(日)
快晴。
六時過ぎ、起床。軽く体操の後、朝食。
イチヂクが美味い。
太陽を浴びながら樹々が揺れる。光が美しい季節。
メールを確認。一日に来る量が最近一段と増えている。パソコンの前に座る時間を短くしたい。せめて、スマートフォンを見ない生活をしたい。
今日は『数学する身体』発売前日。記念に何かホームページに載せようと思い立つ。さて、どんな記事を書こうか。
ひとまず洗濯。心も一緒に洗われる洗濯日和。
散歩。文具屋に寄る。原稿用紙を買う。
帰宅。注文していた『数学する身体』がどっさり届く。献本送付作業。贈り物は楽しい。何を贈るかよりも「贈る」ことそれ自体が愉しい。
郵便局へ。着くと入り口が閉まっている。そういえば今日は日曜日である。仕方なく、たくさんの本を抱えたまま帰宅。
ランチ。豚汁がうまい。
ホームページに載せる文章について思案。
昼寝。
再び、散歩。
大文字山へ。
脱稿を夢見ながら、何度この道を登ったことか。
あのとき、呑み込まれそうなほど、押しつぶされそうなほど大きかった構想も、本になれば、二〇八頁のモノである。自分の一部だった思考が物質になった。あっけないものである。
本の完成は、自分の(部分的な)死。死も悪いことばかりではないかもしれない。
思考がだんだん観念的になってくる。
火床が目の前まで迫ってくる。最後に急な階段が続く。登るのに必死で、観念は再び吹き飛んでいく。
見晴らしが開ける。ひときわ澄んだ青空である。何度見ても飽きない景色だ。
特に秋は一段といい。諦めの中に静かな安らぎのある秋が僕は季節の中で一番好きである。
原稿のことは頭から消えた。本のことも現実味を失っていく。ただ全身が秋になる。こういうときが、一番幸福である。
下山。帰宅。もう、原稿は無理そうである。
洗濯はパリっと乾いている。
地面に大きなムカデが死んでいる。
生きているムカデは恐ろしいが、こうして死んでいると可愛そうである。ひょっとして先月退治したのの相方だろうか。そう思うと、ますます不憫に思われてくる。
虫と会話ができればよいが。俺はお前に手を出さないから、お前も俺を噛まないでくれと、簡単なやりとりをするだけで済む。それができないから、潰したり、薬をまいたり、毒を吹きかけたりすることになる。人がこんなにも残酷にならなくても済む道はないものだろうか。
買い物に出る。自転車をしばらく走らせた後、財布を忘れたことに気づく。
引き返して財布を取る。
再び、家を出る。
目当ての弁当屋に着くと、閉まっている。そういえば、今日は日曜日である。
仕方なく、スーパーで弁当を買って帰る。もう、原稿は無理そうである。
立派な原稿を書こうなどと気負うから、なかなか着手できないのである。もっと日常的に、当たり前のように、何気なく書けばいいはずなのだ。一日かかって、僕はこういう洞察を得た。
そうだ。日記を書いてはどうだろうか。
一冊の本を書き上げる経験など、一生の間にそう何度もあることではない。ましてや、処女作の出版は、一生に一度きりである。
その前日の記録を、日記に書きとどめておいたらどうだろうか。
早速、僕は机の上を片付けて、さっき文具屋で買った原稿用紙を開いた。
外は暗い。
二〇一五年十月十八日(日)
快晴。......
日記を書くなんて、何年ぶりのことだろう。