対談:戸田山和久×森田真生(2012.02.04)2012/ 11 /12 公開

「行為としての科学」の起源を訪ねて

Ⅰ 科学という冒険

森田
そもそも、科学とはどういう行為なのでしょう。

僕は何を考えるにしても、まずその「起源」を考えてみたくなってしまうのです。例えば、数学という行為の起源。数学の歴史がいつから始まったかをはっきりと線引きするのはもちろん難しいわけですけど、やはり象徴的なのはピタゴラスの存在ですね。”ta mathemata”というギリシア語を基に、mathematicsという名前をつけたのも、ピタゴラスだったと言われています。
この”ta mathemata”という言葉はそもそもどういう意味かというと、「つかみ取ることによって獲得されるところのもの」という意味らしいのですが、この「つかみとる」というのが、単なる”take”とは少し意味が違って、「はじめから手元にあるものをつかみとる」という意味らしいんです。
つまり、「自分が持っているものを改めて取りに行く行為」、あるいは「自分が知っていることを改めて知ろうとする行為」というような意味が、mathematicsという言葉には込められていたんです。

ピタゴラスは数学者である以前に偉大な宗教家だったわけですけれど、彼なりの思いで”mathematics”という行為を立ち上げたのです。ただ漠然と計算をしたり証明をしたりしていたわけではなく、そこには彼の明確な理念というか理想があったんですよね。
数学という行為が生まれる背景にはもちろん様々な要因が絡んでいるので、どこか歴史上のある時点にその起源を特定してしまうことには無理があると思いますが、一方で、ピタゴラスの時代の人々の「数学というのはこういうものなんだ!」という積極的な思いや情熱が、数学の向かう方向性を決めていく上でとても大きな力だったことは間違いないと思うんです。

その意味で、僕らもいま、科学という行為を所与のものとして引き受けるという態度ではなくて、それをつくり直してしまおう、それにまた全然違った意味を与えていこう、というようなことも可能なんじゃないでしょうか。大げさに言えば「行為としての科学の再発明」ということですね。
僕は今日、こういうテーマでぜひ戸田山先生とお話したいと思っているんです。

最近、内田樹さんと対談をさせていただく機会があったのですが、その内田さんの『レヴィナスと愛の現象学』の中に出てくる、オデュッセウスとアブラハムの冒険の対比の話はとても面白く感じました。
英雄オデュッセウスの冒険は故郷へと向かう旅です。地中海を放浪するあいだ、巨人や怪物や魔女に出会い翻弄されていくわけですが、オデュッセウスは最終的に故郷に戻って、「あんなすげえ怪物がいたよ」とみんなに報告します。するとその話が故郷の人たちに通じるわけです。
そういう意味で、オデュッセウスの冒険は本当の「未知」と出会っていないとも言えます。それを経験していない故郷の仲間に理解されるわけですから。このように、オデュッセウスの未知は、最終的には既知に回収されてしまうことを運命づけられた未知なわけです。
オデュッセウスの世界は真の意味での未知がなく、既知の中に閉じてしまっている。徹底的に既知に取り囲まれているというのは、これはこれでとても孤独なことです。

一方のアブラハムは、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」という風に、なんの予告もなく、突然宣告されます。なぜアブラハムにこの言葉が告げられたのかも、その命令がなにを意味するのかも、なにもかもが知らされていない。そういう完全なる未知に投げ出されたまま、姿の見えない主の「声」に呼ばれるがままに、故郷を捨てて旅立つわけです。

アブラハムの冒険は、絶対的な未知そのものに支えられた冒険です。「この命令にはいったいどんな意味があるのだろうか」と解釈をしようにも、その解釈の正当性を検証する仲間もいない。だから、神の真意をなんとか諮ろうとするのだけど、その解釈の結果については、自分以外に責任をとるものがいない。そういう意味で、アブラハムの旅もまた、やはり深い孤独を運命づけれています。

このように未知によって駆動され、未知の中にさらされているアブラハムの旅と、既知に閉じられているオデュッセウスの旅を、レヴィナスは見事に対比させてみたわけです。

そこで冒頭の話に戻りますが、ピタゴラスの「ta mathemata」は、この話で言うところのオデュッセウスの世界観を思わせますね。「知るということは、はじめから知っていたことをあらためて知ることだ」というわけですから。プラトンの「マテーシスはアナムネーシス」同様、結局「未知はやがて既知に回収されるんだ」という認識がそこにはありますよね。

だけど、僕が数学をやっているときの実感って、ある意味ではこれと真逆なことがあるんです。どちらかというとアブラハムに近い心境というか、何か圧倒的な未知に開かれているという感覚がある。
一見すると数学は数字や記号列を使ってすべてを既知に還元していくように見えますが、実際にはあえて記号の使用に徹することで、結果的には記号に回収されないものの存在感を立ち上げている、というような側面もあるわけです。記号の使用を通して、記号の彼方を指し示す。その「記号の彼方」は、僕らにとってはいつまでも未知なわけです。

ベイトソンが動物の甘噛みについて面白いことを言っています。甘噛みというのは相手に噛みつくわけですが、本当に噛みついてると思われたらいけないわけです。ですから、動物の甘噛みは、「噛んでいる」というメッセージだけを相手に伝えながら、噛んでいるという動作が本来意味する内容(=あなたを攻撃している)は伝えないという、ある種高度なことをしているわけです。記号の使用を完遂させないことで、その記号自身では伝達できないメタメッセージを伝達している。
数学も記号の使用に徹していますから、数学者はあくまで記号に回収されるような現象にだけ興味を持っていると思われるかもしれませんが、数学者による記号の使用というのは、あくまで未遂に終わる運命にある。数学が「完了する」ということは起こりえないわけです。この、記号の使用が完遂しないことそのものが私たちに伝えるメタメッセージであり、そこにこそ数学という行為の本質があるような気もしています。

さて、ずいぶんいろいろなことをしゃべってしまいましたが、戸田山さんは、科学という営みの起源ということについては、どのようにお考えでしょうか。

戸田山
それは、ここからはじまった、と境目を引くことはできないですよね。気がついたらやっていた、ということではないでしょうか。でも、人間にとって、科学は明らかに過剰な行為ですよね。人間が生存する上において、やる必要が無いことをしているわけですから。
われわれの頭の出来というのは、適当に考えないようになっているじゃないですか。その方が進化的にはおそらく有利でコストも掛からない。でも、科学はめちゃくちゃコストを投入する。
実は、科学以外のいろいろな要素が偶然集まって、ポワッと化学反応を起こしたようにして出来たのが科学なのではないかと思っているんです。

一つは宗教。つまり、「いま見えている世界は本物じゃない」、「本当の世界は決して見えませんよ」という考え方が、おそらく人類史のどこかで出現したと思うんです。本当の様子なんて知らなくても、見えている世界さえきちんと捉えることができれば生きていくことはできる。だけど、その見えている世界の背後に、われわれを触発する真実が隠れているのだ、ということをどこかで誰かが考えたわけですね。

そしてもう一つ、「じゃあ、その見えていない真の世界は誰が作ったのか?」という考えが起こり――それが“神”と呼ばれたんでしょうけども――、その神がこの世をどういうつもりで造ったのか知りたい、というか「知らねばちゃんと生きていけない」という強迫観念を人間はどこかで抱いた。

そして、その二つだけだと単なる形而上学だったのですが、技術の進化により自然をある程度コントロールできるようになると、今度は、実験ができるようになって……。そういったいろいろなパーツが、それぞれ違う場所で作られていった末に、ある時代に出会って融合し「科学」になった。――そんな感じじゃないでしょうか。

だから、科学のパーツ、パーツのルーツをたどっていくと、われわれが今、「科学」と呼んでいるものが生じる、はるか以前からおそらくずっと続いている。それらが出会ってくっついた時代は、割と最近だと思います。いわゆる科学革命というのは、そういう出来事だったんじゃないでしょうか。

(2012.2.4 名古屋大学にて)

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