Ⅱ 世界の見えない背後
- 森田
- あるとき人は、「いま見えている世界は本物じゃないんじゃないか」という不安にふと目覚めた。興味深いですね。目の前で起こっていることをそのまま受け取るのではなく、「可能性」ということに目覚めてしまったわけですよね。それにしても、「世界の背後に隠れているもの」ということを発想したときに、「それがいつか全部分かっちゃうかもしれない」なんて思ってしまうのも、なかなか異常なことだと思うんですよね。
- 戸田山
- 異常ですよね。そういった意味では。
- 森田
- でも、「全部が分かっちゃうかも」って思うことが異常だ、という認識ができるようになったのは、逆に科学という営みのおかげなのかもしれませんね。
自然科学の様々な成果によって、時間的にも空間的にも、私たちがいかにわずかの情報にしかアクセスできていないか、ということに対する認識が深まっていますよね。それこそはじめて人間が「いま見えている世界は本物じゃないのではないか」って思ったときには、未知ということに対する想像力ってごくごく浅いものだったと思うんです。それまでは、端的に目の前にある世界がすべてで、そういう意味では既知しかない世界を生きていたわけですから。
ある面で、科学が未知の存在感を深めて、僕たちに謙虚になることを教えてくれている部分もあるわけですよね。
それにしても、そもそも「この世界には見えない背後がある」という認識は、いったいどうして生まれてきたんでしょうか。
- 戸田山
- ある程度高等になった動物からは、幾つもの知覚のモダリティがありますよね。これが、「世界には隠れた背後がある」ということを考える上で、決定的に重要だったのではないでしょうか。
つまり(目の前のテーブルを指して)、平らなテーブルがこう見えてるけど、触ると奥や中があるわけです。だから、触覚で捉えた世界と視覚で捉える世界には、ズレがあるわけですよ。聴覚で捉える世界ともまたズレがあって、そのズレが見たままとは異なる、内側とか外側、表や裏という思考を生んだのだと思うんですよ。
つまり、簡単な目のようなものしか持たない原始的生物であったら、その目で捉えた世界がその生き物にとっては全てですよね。しかし我々は、いろいろなモダリティを持っているから、見えない背後とか、裏とか、中とか、外とかを捉えられるようになったと。
- 森田
- 知覚のモダリティが生み出す差異が「隠れた世界の背後」を立ち上げた、というのは非常に興味深いアイディアですね。
以前、斎藤慶典さんの『レヴィナス 無起源からの思考』を読んでいて、「いないいなばあ」というのが実は奥の深い遊びなんだ、というくだりに感激したことがあるんですが、あれって「あるはずのものがない」ということが分からないと面白くないんですよね。生まれたばかりの赤ん坊は、端的な存在の世界を生きていて、「あるはずのものがない」という非存在の認識にまだ目覚めていない。それが、ある段階で「否定」ということに目覚めるわけです。「ここにあるのにあそこにはない」とか「さっきはあったけどいまはない」とか、そうやって時間と空間の認識が立ち上がっていく。「在ること」とともに「在るはずのものが無いこと」がわかるようになって、はじめて「いないいないばあ」は面白くなるわけです。
時空が立ち上がる最初の契機として、ひとつの差異の認識「ネゲーション(=否定)」ということに対する目覚めがあるわけですよね。ネゲーションに目覚めるということは、「そこにあるわけではないものに対する想像力」への目覚めでもあるわけです。
心の世界が立ち上がってくる上で、このネゲーションということがすごく重要な役割を果たしていると思うんです。僕らはつい、何もないところに少しずつ何かが出来てきた、というポジティブな世界認識をしがちだと思うんですが、圧倒的な端的な存在の世界に非存在の亀裂が走ることでそこに差異が生まれ、世界が立ち上がってきたのだという、ネガティブな世界認識というのも可能だと思うんですね。
例えば、僕らの指だって、手のひらに五本の指が生えてきたんじゃなくて、発生学的には手のひらから4つの隙間の部分にあった細胞が死滅していったわけです。雪の結晶も、何もないところから秩序が生成したとみることもできますが、雪の結晶が出来ていく過程で、これから出来る結晶パターンへの制約がどんどん増えていって、「可能性が減る」という形で秩序が構成されていくというネガティブな見方もできるわけです。人間がすごいのは、単にネゲーションということに目覚めただけではなく、「あるはずのものがない」ということをそのままひとつの記号に置き換えて、「ないこと」それ自身を計算資源としてしまう、という考えにいたったことだと思います。それが「ゼロの発見」ということの本質なわけですが。
でももう少し考えてみると、数学におけるゼロということに限らず、人の思考プロセスって「そこにはないもの」を使った思考だらけなんですよ。情報なんていうのは、まさに「そこにあるわけではないもの」の典型だと思います。少なくとも物質的な意味でのmatterではないけれど、僕らにとって意味のあるもの(what matters)ではある。僕らの思考そのものはそういう意味でmatterのレイヤーで起こっているわけではなくて、what mattersのレイヤーで起こっているわけですよね。
「そこにあるわけではないもの」を使って「計算」をしている人間の知性ということと関連して、先日内田樹さんと、レヴィナスの言う「始原の遅れ」に自覚的なロボットは作れないだろうか、ということを議論したんですけどね。
- 戸田山
- 情報に導かれる計算というのは面白い概念だと思うんですけど、計算というのは、その場で起きていることですよね。そして、情報とはその場に無いものを指し示すことができるもの。
つまり、意味に導かれて、我々は思考したり計算したりしているように見えるけれども、実際にやっていることは、今そこにある数や記号などのシンタクティカルな対象、いわば形式を並べ替えたりしているだけなわけです。だけど単に「その場で起きていること」が狭く、「その場に無いものを意味すること」の方がより豊かな考え方なのだというのではおそらくない。なぜ同じことに対して、このかなり対照的な2つの見方をすることができてしまうのか、それ自体が私にとっては一番面白く感じますね。
例えば心というものは、意味をガソリンにして動いているエンジンのように見えます。わたしたちが内面から自分を反省してみたときに心に現れてくる事態の描写としては、もう意味だらけなわけですね。
(2012.2.4 名古屋大学にて)