対談:戸田山和久×森田真生(2012.02.03)2012/ 12 /03 公開

Ⅳ 支えあう直感と論理

森田
フランシスコ・ヴァレラの”Not one, not two”(1976)という面白い論文があって、その中でヴァレラがこういう絵を描いてるんです。

網の目って、全体が絡まり合っていてあちこちにループが出来ているから、どこにも始点がないんですよね。そういう始点のない網の目の一部分をちぎり取ると、樹構造が現れて、そこには始点があって、ちゃんと順序構造が入ってる。

世界が本来、重重帝網の融通無礙に縁起しあう世界だったとして、そういう関係性の網の目にはそもそも始点もなければ順序もないわけですから、そこには時間もなければ因果律もないわけです。でもそういうネットワークの一部を局所的にちぎりとってくると、はじめてそこにネットワークのローカルな構造として順序みたいなものが見えてくる。

全体が部分を包含して、部分が全体を支えているというこういう関係性ってあちこちにあると思うのですが、論理と直感の関係もこれに似ている気がするんですよね。全体がいきなりわかってしまうような直感と、部分から積み重ねていく論理。これらは互いに互いを支えあっていて、どちらに偏っても不安な感じがしちゃうんです。

戸田山さんは、このあたりについてはどのようにお考えですか。

戸田山
上手に生きていくためには、もちろん両方必要だと思っています。ただ、これが直感という言い方が適当なのかはわからないですけどね。hunch(=虫の知らせ)とでも言えばいいのかな……。
森田
hunch?
戸田山
怪しいとか、何か不吉な予感というものを我々は何か持っていて、それは、何とも分析できないのですけど、そういう感覚に従っていると大抵うまくいくことが多いような気がします。「今日は何となく気が乗らないや」とか、ガチャッと入っていったら「何だか雰囲気が悪いな、おい」。すると後からなんでそうなのか、理由が分かったりして……。
森田
論理に先立ってhunchが動き出すからこそ、生き残れるわけですよね。
戸田山
そうですね。感情とか雰囲気、五感。我々は、雰囲気を感じたり感情的な反応をしたりすることと、合理的に、論理的に考える作業を両方やっているわけですよね。世界図を作っていくとか、正当化するとか、正しいことと間違っていることを分析的に分ける場合に論理をやるんだけど、でも生き延びるためには直感もすごく大切で。

たとえ話をしましょう。すごく分析的な思考の持ち主がいて、非常に懐疑主義者で、道を歩いていたら何か犬の糞みたいな物が落ちてると。「これは、糞に見えるね。どこから見ても糞だろうな。色もそうだな。色も形も」って分けて考えて糞のようだと。
「ちょっと触ってみよう」とか言って「おっ、柔らかい。これは、糞のようだ」。
「匂いを嗅いでみよう。糞の匂いがする。ちょっと食べてみよう。味も糞のようだ。味も匂いも手触りも、みんな糞だ。これは糞だ。ああ、踏まなくてよかった」(笑)。

それより、道ばたに茶色い物が落ちていたら、キャッって言ってよけていく方がいいじゃないですか。もう足が先にこう避けるじゃない。だから、直感を無視すると結構怖い。

森田
適応上、直感が重要なのはもちろんですが、「直感の厳密さ」みたいなのもありますよね。ときどきダンサーやアーティストと話をしていて、彼らの直感のある種の厳密さにドキリとさせられることがあります。
戸田山
僕は、直感と論理を行った来たりすることに関心がありますね。
アーティストの人たちと話をする機会があって、そうすると彼らは、一生懸命、言葉にしようとするんです。ただ作品を作ればいいとか、ただ踊ればいいというのではなくて、それを何とか言葉で表現しようとする。
それから見た側も、どのように感動したかを言語化しようとする。それらが非常に大事で、見た人の言語的評価を今度はパフォーマーが非常に気にしたり、それが彼らの助けになったりする。だから、直感と論理を行ったり来たりという往復運動が、それぞれを豊かにするという可能性を考えるのがいいのかなと。
森田
僕の場合は、例えば踊りを教わったり、懐庵で身体を動かすことと、数学で論理的に考えることを両方やって往復かな、みたいな感じがあるんですけど、戸田山先生の中では、この往復運動はどのようになさっているのですか。
戸田山
こちら(直感)が、芸術的なことをすることだとは考えてないんですよ。えも言われぬ人生の機微というか……。例えば、「こういう人って何か嫌だなあ」とか「こういう人ってすごく立派だ」と感じる。じゃあ、「こういう人」ってどういう人か。言い換えると、それは、自分がどういう行為を憎んだり、素晴らしいと思ったりするかにつながってくる。
これを大きな言葉で表現するとすれば“美”ですね。美しいもの、芸術作品だけじゃなくて、自然現象にも、それから人の行いにも美しい振舞いがある。それらの感受性を高めていく、これを感得できる能力を育てていくというのは大事なことだと思いますよ。
もう一つ大事なのは、それを言葉で表現すること。言葉で表現すると、これがまた研ぎ澄まされるような気がするんです。
森田
はい、それはあります。
戸田山
ソムリエみたいなものです。彼らも言葉が無いと、おそらく区別できないと思うんですよ。「これ、何年のボルドーで」とか……。ソムリエも好き勝手な言葉を使うことはできず、幾つか限られた語彙があるんです。「ラズベリーのような」とか、「何とかのような」というその語彙をきちんと組み合わせる言語能力を持つことによって区別ができると。

私なんてその語彙は無いから、「液体Xはうまい」みたいな感じでしか言えないわけですよ(笑)。

(2012.2.4 名古屋大学にて)

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