対談:戸田山和久×森田真生(2012.02.03)2012/ 12 /15 公開

Ⅴ 自走する思考

戸田山
逆に森田さんに聞きたいのですが、こういった言語的、論理的な思考というのは、かなりローカルかつ部分的ですよね。逆に、全体、「隠れたところもいっぺんに」というような直感的な世界の捉え方をするときは、大体、アートか武術が出てきますよね。

ただ、病気になった時も直感に傾くじゃないですか。僕はぜん息持ちなんですけど、ぜん息持ちって、ものすごく気温の変化に対する感受性に富むんです。暖かい所からちょっと気温が違う場所に出ると、もうせき込む。途端にぜろっ(咳の音)とかいって、「寒いんだ」ということがすぐに分かる。
そういう意味では、病気になるということも、ある意味、全体とか、見えないところ、雰囲気をピッと感知するのには都合がいい……と言うと変だけど、そういう意味では感受性が高まっていますよね。アレルギーなんて、ほとんど数分で死にそうになるのだから。

武道とかアートの直感についてばかり、ポジティブな価値をこの世界では与えられていますけれど、病気のようなネガティブな直感についてはどう思いますか?

森田
病気の時って、「自分がある」という感覚が、すごくビビッドになりますよね。ここにいて、こんな身体を僕は毎日背負って生きていたんだみたいな……。

でも僕は、踊ったり、自分の外側にあるものを使って考える時って、むしろ自分という存在が分からなくなるような感じがするんです。個人的に何かすごく辛いことがあったとしても、それさえ忘れて「無我」の境地に入ってしまうような……。バスケットボールをしているときもそうです。

自分の境界をハッキリ意識することと、自分の境界が無くなっていくという意味では、同じ直感でも、病気とアートではすごく違う気がするんです。

戸田山
自分の境界が病気の場合は非常にはっきりしてきてしまうと。意識せざるを得なくなると。一方、アートや武術で、自分の境界が不分明になっていくことは、なぜ良いと思うのでしょう。
森田
僕はもともとずっとバスケをやっていたんですが、バスケをやっているときの一番の喜びは、まさに自分の境界が消えていくような感覚そのものだったんですよね。その原体験がやっぱりあるからかもしれません。
僕の高校時代のバスケ部の監督は、「針が落ちたら、その針が落ちたところがピンと張り詰めるような空気を作りたい」といつも言っていて、実際、すごく厳しい練習でした。本当に針が落ちたらその音が聞こえるんじゃないか、という雰囲気の中で、まるで三昧のような状態になったんです。練習中でもいい流れに乗っている時って、自分がシュートやパスしていても、もう自分という存在さえ感じないんですよ。「勝ち負けさえもどうでもいい」みたいな感じになって、それが僕にとってはすごく楽しくて。

バスケをやめてからしばらく憂鬱な時期が続いたんですけど、数学に出会ってまた心が晴れたというのは、数学にも似たような感覚があるからだと思います。数学をしているときは、自分という存在はあまりはっきりとしていない。

戸田山
なるほど。哲学でも過去の多くの人によって、同じ命題について様々なことが言われていて、その結論だけを使うわけにいかないので、思考のプロセスも含めて追い掛けていくわけです。
その思考のプロセスを頭の中に入れて自分で考え、終わった後「おっ、すごいことを考えたじゃん」という実感が得られるのは、おっしゃったように大抵そういう境界が無くなっていくというか、自分が考えをコントロールしているというよりは、頭の中に入れた様々な思考が勝手に自走している状態ですね。
森田
ゼミで面白いのは、先生の前で発表するじゃないですか。すると、「それは違いますねえ」っていきなり言われたりするんです。先生もなぜ違うのか分かっていないんですよ。「ちょっと待ってください。うーん」とか言って、何か書き始めて、しばらく計算した後に、ようやく違ったことが証明される、みたいなことがあって。

数学も勉強始めたばかりの頃って、「何かこれ違いそう」とか「正しそう」と思ったとしても、だいたい外れる。その頃の直感は大して当たらないけど、幾つも経験を蓄積しているうちに、何か数学的な現象の世界が勝手に回り始めるような、自走し始めるような感覚を得ることがあるんです。
そうすると、別に何か証明や計算しているわけでもないのに、「あ、こんなことは起こらないはずだよな」みたいなことがだんだんわかってくるんですね。過去の哲学者の言葉を頭に入れていたら、勝手に思考が回り始めていくことと同様に、熟練すればするほど、数学の世界でも数学的な概念をたくさん入れていくと、整合性を保つためか分かりませんが、数学的現象の世界が自走し始めることがあって、大変面白いと思います。

でも、その自走し始めた秩序とかルールができても、やっぱりそれに反するものが見つかってくるっていうこともまた面白いですけどね。

戸田山
哲学でやっぱり一番面白いのは、一見つまらない前提から勝手に思考が暴走して、とんでもないものが出てきた時ですね。「こんな結論が出てしまいましたけどいいのかなあ、ポリポリ」ってやっている感じの論文が一番格好良くて……。
森田
こんなとこ来ちゃったみたいな。
戸田山
「やっちゃったよ」みたいな。

逆に「最後まで自分が思考をコントロールしました」みたいなときって大体つまんない。最初から落としどころが見えていて、そこに向かって行くっていうようなとき。

森田
哲学でも、「こういうことを言いたいんだ」という意図とかモチベーション無くして、何かを言ってしまうことってあるんですね。数学って、「これが言いたい」という意図が積極的に無くても、計算していたら何か言っちゃってた、みたいな場合があるのですが、哲学ではそうはいかないと思っていました。
戸田山
こんな感じです。例えば、僕の場合だと自然主義っぽい包括といったような、何か太い大まかなベクトルみたいなものがあって、いわば、一種のそちらへ向けた勾配が付いてるスペースがあって、このベクトルに向かって、自分で意識的にコミットするんですね。「俺、こっちのほうで頑張るぞ」と。
でも、その中で一つの問題を考え出したりすると、乗っちゃって「あらららら」とか言って、意図していたよりずっと遠くまで来てしまうことがある。
だから「大筋としては間違ってないんだけど、ここまで来ちゃったよ」というときが一番自分で楽しいわけね、だって、こんなところまで来るつもり無かったから。だけど、ただ乗ってたらこんなとこまで来てしまったというね。
森田
今日は、「科学という冒険」はオデュッセウス的冒険とアブラハム的冒険のハイブリッドなんじゃないか、という話が途中で出てきましたが、直感と論理の絶えざる往還、そして自力と他力の微妙な混淆の中にこそ、行為として学問の醍醐味があるのかもしれませんね。そうやって、知と未知のあいだに燃えさかる炎のように、知性を持った人間が生きている限り「科学という冒険」は終わりを迎えることはないのでしょう。

今日は「行為としての科学の再発明」という思い切ったテーマを僕の方で勝手に用意しましたが、先生のお話を伺っているうちに、いろいろな偶然が集まってポワっと生まれてきた科学という行為そのものに内在するパワーというか、そもそも科学という営みそのものの中に、自分自身を作り替え、生まれ変わり続ける生命力が漲っているんだ、という気がしてきました。その科学の生命力を、しっかりと育てていくような方向に進めたらいいですね。

短い時間でしたが、とても楽しかったです。
お忙しい中、本当にありがとうございました。(完)

(2012.2.4 名古屋大学にて)

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