対談:戸田山和久×森田真生(2012.02.04)2012/ 11 /23 公開

Ⅲ 道具としての論理

戸田山
先ほどおっしゃっていた、外の未知なるものに導かれて探求が始まって、そこで何か見つけたとしたらどうでしょう。我々の精神というのは、おっしゃったように“無いもの”に駆動されて働くエンジンなんだけど、それを一旦つかんでしまうと、“前からそこにあったもの”として処理しますよね。

例えば、科学――例えばブラウン運動だったら、「もしかしたら水って、小さい粒々から出来ているんじゃないか」と想像する。で、粒々を置いてみる。その時は、「粒々では無いもの」と仮定して置くんだけど、いろいろな方法でアボガドロ数を測ってみたら、やはり一致した。ということで「ああ、どうも原子って存在するらしいぞ」となると、「実はね、昔からあったんです」というふうに、我々はリアリティを内部に取り込んでしまう。

数学でもそうですよね。数直線が点から出来ているという説だって、最初は「普段は点など存在しないが、線を切断してはじめて切り口から出てくるもの」だったのだけど、何だか知らないけど、いつの間にかひっくり返って「点から出来ていたんです」みたいになり、それが主流となった。後者の見方は、ある意味逆立ちしているとも言えるのですが、それはやはり科学的な探求の一コマで、前者・後者どちらが欠けても先へ進めない。

「外」が「内」になるから、今度はさらなる外側が「外」になるわけですよね。
つまり、中に取り込んでしまったものに、我々はあまり駆動されない。だからこそ、外で見出したものは、予め内側にあったものとして置いていく心の働きが無いと、我々の世界が広がりを見せることは無いと思いますね。

だから、「そこにない未知なる外側に駆動される働き」、そして、「一旦発見してしまうと予め存在していたものとして説明する、いわば既知に取り込んでしまう働き」この両方が大事なのじゃないのかなって、思うわけです。

森田
「科学という冒険」はオデュッセウス的冒険とアブラハム的冒険のハイブリッドというわけですね。

今おっしゃったように、外側に駆動され、意味も分からずに動いてしまったことに対して後から言葉で説明する、いわば後付けの論理はすごく便利ですが、一方で、“未知”に向かって行くことと論理との関係性については、どうお考えですか。
つまり、論理は既に起こったことを説明する力や、それに骨組みを与える力は強くもっていますよね。では逆に、未知なる外側の場所に行くために、論理は有用なのでしょうか。

戸田山先生が論理というものを、そもそもどのように捉えていらっしゃるのかについて、大変興味があるのですが。

戸田山
道具だと思っていますね。
森田
どういう道具でしょう。例えばコンピューターや機械を使うと、身体的直感では絶対におかさないような間違いをしますよね。論理や計算の面白さは、そういうところにあると僕は考えています。たとえば、代数などは意味は分からないのに計算できることがありますよね。そして、意味も分からぬままに計算していると、直感では辿りつかないようなところにたどり着いてしまったりします。いわば、身体感覚に基づく直感を信じていたら、絶対ありえない図形が自然なものとして定義できちゃったりするというのが代数幾何の面白さで。

僕は割と身体感覚をずっと信じていたのですが、でもその身体感覚に頼っていると、変な間違いはなかなかできなくて、自分の世界から飛び出せない。だけど、論理や計算って、そういう間違いができる。いや、間違いというか、自分の世界から飛び出してしまうための道具として、僕は信じているんです。先生が今、道具とおっしゃったのは……。

戸田山
大体同じ意味だと思うんです。形而上学をやるための道具です。
つまり見える範囲のことは見えている以上、論理は不要ですよね。そのときの感覚入力に適切に対応して生きていくだけなら、推論なんてする必要はない。

推論するときって、帰納的な推論であれ、演繹的な推論であれ、「これまでにこんなものを見た」ということから見えないことがらについての答えを出すためです。見えないというのは、ミクロすぎて見えないであるとか、いろいろな理由で見えないことを指しています。「昨日も太陽が昇りました。今日も昇りました。じゃあ、明日も昇るでしょう」――そういうことも含め、見える範囲から見えないところ、あるいはまだ見ていないことへ行くための道具ですね。

例えば背理法を発明したのはエレア学派だと言われています。彼らのパルメニデスというお師匠さんいわく、「この世界は変化と運動に満ちているように見えるでしょ。でも本当は運動なんて無いんです」って。でも、見たら「運動はある」としか思えないわけじゃないですか。
見えている範囲から出ようとしなければ、「運動が無い」という可能性は絶対に考えられないのだけど、「じゃあ、仮に運動があると仮定しましょう。すると、こんな変なことになるでしょう」って、ここの部分だけが語り継がれたのが「アキレスと亀」という有名なパラドックスだったりするわけですよ。

要するに、「実は運動は無い」という可能性を垣間見させてくれるため、いわば世界における見えない真実がどうなっているのか、そこへアプローチするための道具として論理があったのだと思うんです。

(2012.2.4 名古屋大学にて)

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